お賽銭の見返りはあるの?|お賽銭の話③
お賽銭は、お願いを叶えてもらうための料金なのでしょうか。
「これだけ入れたのだから、願いを叶えてほしい」
そう考える人も多いと思いますし、以前の私も、どこかでそう考えていた時期がありました。
お賽銭の金額について書いた記事では、金額に正解はないこと、そして神様はお金を必要としないという私見を書きました。
その上で、今日はもっと深いレイヤーの話をします。
実体を持たない神様が、お金を使うわけではありませんので、神様のためにお賽銭をするという話は、私にはピンときません。 なので、私個人的には、神様はお金を必要としていないという大前提があります。
ただ、神様が祀られている神社は現実社会の一部として存在します。
社殿を修繕し、境内を掃除し、樹木を手入れし、その場を未来へ残していくためには、当然お金が必要です。
だからお賽銭は、遥か昔からこの場所を守ってきてくれた人たちへの感謝であり、未来にここを訪れる人たちへ場を残していくためのお金でもある。
これも私の考えの大前提です。
その上であえて書きますが… お賽銭を「お願いを叶えてもらうための料金」と考えることも、あながち間違っていないかもしれないと思っています。
ただし、千円入れたから宝くじで高額当選したい、という単純な取引の話ではありません。 そういう直接的なお願いも叶うかもしれませんが、私はあまり体験していませんし、期待もしていません。
ただ、私がお賽銭で叶えられると思っている「お願い」とは、もっと大きな意味での「お願い」であり、お賽銭の金額によっては、むしろ何かが返ってくる確率は非常に高いと思っています。
お賽銭の効果として何かが返ってくるとしても、
何がどのように返るのか…
いつ返るのか…
誰を通じて返るのか…
神のみぞ知る世界の話…
ただ、神様に捧げられたお金…
それがお賽銭だと私は思います。
それゆえに、お賽銭箱は、私たちの想像を超える見返りが返ってくる可能性を持つ、未来へのブラックボックスかもしれません。
お賽銭を入れて、90日後に何が返ったかを見る
以前、歌手・作曲家の總水とおまさんが、お賽銭についてとても面白い話をされていました。
動画の中で紹介されていたのは、ある研究者が、エントロピーの考え方を用いて、お賽銭として差し出したものが、自分にどのような利益として戻るのかを数式にした、という話です。
その説明では、等価交換にならないものに自分の持っているものを差し出すと、「何があるか分からないブラックボックスの状態」が生まれるとされていました。
そして、そのブラックボックスの場として「箱」が適しており、寄付は使い道が分かり、お守りや御祈祷は授与品やお札を受け取るため等価交換になりやすい。
その一方で、お賽銭は最も等価交換になりにくいものとして語られていました。
その考え方から、お賽銭を入れた日と金額を記録し、約3か月後、つまり90日後に、どのような形で何が戻ってきたかを振り返ってみる。
何が返ってくるかは分からない。
お金として戻るのか、仕事や誰かからの助けとして来るのか。あるいは、本来ならお金を払わなければ得られない体験として来るのか。
動画では、50人ほどのグループで、この記録を続けていると語られていました。
物をいただいたり、仕事を引き受けてもらえたり、立場や評価が上がったりすることがあったそうです。
疎遠だった親族と再びつながったり、夫婦関係が良くなったり、本来は自分が引き受けるはずだった役割を誰かが代わってくれたりした、という話もありました。
そんな出来事を、90日前にお賽銭として手放した金額と照らして見ていくのです。
そして動画の中では、手放した金額の30倍から40倍ほどの「価値」が、何らかの形で戻ることが多いと語られていました。
ここで大事なのは、30倍というのは、必ずしも現金が30倍になるという意味ではないことです。
たとえば1万円を入れたなら、30万円そのものが戻るというより、30万円分の仕事につながったり、30万円を払わなければ得られなかった体験をいただいたりするかもしれない。
自分だけでは動かせなかったことを誰かが動かしてくれたり、会いたくないと思っていた人との再会が、その先で30万円規模の仕事やご縁につながることもあるかもしれません。
価値は、お金だけでは測れません。
時間の余裕が生まれたり、人間関係が整ったり、必要な情報や機会が必要なときに届いたりすることもあります。
それらもまた、人生の中では大きな見返りです。
もちろん、これは「お賽銭を入れれば必ず30倍になる」という私が保証できる話ではありません(笑)
ただ、見返りを決めずに、お賽銭として手放した金額が、こちらの想像を超える形で巡ってくることはある。
その可能性を、90日単位で少し楽しく観察してみると、一定の変化が見られたそうです。
なぜ、お賽銭箱がブラックボックスなのか
もう一度、この話を整理します。
寄付であれば、災害支援や子どもたちの支援、自然環境の保全、医療や福祉のためなど、何に使われるのかが比較的分かります。
それはとても素晴らしいことです。
神社に納める御祈祷やお守りの初穂料も、神社を支える大切なお金です。
ただ、御祈祷には祈祷という体験やお札があり、お守りには授与品というわかりやすい見返りがあります。
一方で、お賽銭は違います。
お金を入れて、その場で何かを受け取るわけではない。
神社の維持に使われるとしても、それが具体的にどこで、誰のために役立つのかは分からない。
自分が納めたお金で、社殿が保たれる。
境内の木が手入れされる。
参道が整えられる。
神社が整って存続した結果、数十年後、数百年後に、人生の大切な局面で、誰かがそこに立ち、手を合わせ、何かを取り戻すかもしれない。
お賽銭は、未来の不特定多数の人に向かって開かれているお金です。
だから、寄付とも、御祈祷やお守りの初穂料とも少し違う。
自分が差し出したものが、どこで誰に届くのか分からず、自分が何を受け取るかも決まっていない。
この「分からなさ」こそが、無限の可能性とも言えるでしょう。
「料金」と考えても良いが、返り方は指定できない
以前の記事では、お賽銭を、願いを叶えてもらうためだけの料金とは捉えていない、という趣旨のことを書きました。
それは今も変わりません。
ただ、「お願いを叶えてもらうための料金」と考えること自体を、私は否定しませんし、むしろ、お賽銭は、最も自由で、最も大きくて豊かな可能性を持つ対価を期待できる料金と言えるかもしれません。
こちらが「病氣を治してください」「仕事をください」「お金をください」と願う。
それに対して、神様がその願いをそのまま叶えるかどうかは分かりません。
でも、願いよりも大きな形で、別の方向から人生が整っていくことはある。
必要な人と出会う。
不要な縁が離れ、新しい仕事や助けがもたらされる。
心が軽くなったり、家族との関係が変わったりする。
そのとき初めて、「あのとき、お願いしたことへの返事は、こういう形だったのかもしれない」と思えるかもしれません。
だから、お賽銭は取引ではないけど、無限の見返りへの入口なのかもしれません。
忘れるくらいがちょうど良い
この実験で重要なのは、お賽銭を入れた後に執着しないことです。
「90日後に絶対返ってくる」
「まだ返ってきていない」
「もっと大きなものが来るはずだ」
と追いかけ始めると、せっかく手放したお金を、意識の中で握り続けることになります。
お賽銭を入れたら、忘れるくらいがちょうど良いと思います。
何か良いことがあった時に、振り返ってみると、
「あのときお賽銭として差し出したものが、こんな形で巡ってきたのかもしれない」
そう感じることがあるかもしれない、という話です。
動画の中でも、豊かになっている人ほど、実はあまり執着せず、自然に忘れているような話がありました。
返ってくることを監視するのではなく、来たものを「ありがたい」と受け取る感覚です。
この受け取る感度がなければ、どれだけ豊かさが巡ってきても、氣づかずに通り過ぎてしまいます。
お金を、エネルギーとして循環させる
お金は、意識の状態をとても正直に映します。
不安や欠乏感、お金を失うことへの恐れが強いとき、人はなかなかお金を手放せません。
もちろん、生活を守るためにお金を大切にすることは当然ですし、無理をして大きなお金を入れる必要は全くありません。
苦しいのに身を削って差し出すのは、欠乏を意識することにつながりやすいので、おすすめしません。
自分がある程度満たされている。
今の自分なら、この金額なら氣持ちよく出せる。
その、あふれた分を差し出す。
動画の中でも、お金を手放すことは、自分のエネルギーを一度そこから抜くことだ、という趣旨の話がありました。
お金を握りしめたまま、「減らしたくない」「奪われたくない」と思い続けるのではなく、感謝と信頼を持って一度手放す。
すると、お金という形に限らず、別のエネルギーが巡ってくる余地が生まれる。
人からの好意や仕事の機会、必要な情報として巡ってくるかもしれない。
時間の余裕や安心、思いがけない体験として現れることもある。
そして、巡ってきたものを「ありがたい」と受け取る。
差し出すことと、受け取ること。
その両方ができて初めて、お金というエネルギーも、滞らずに循環していくのだと思います。
自分にとって「それなりのお金」を、何の見返りも決めずに氣持ちよく手放せるとき。
そこには、「私はすでにある程度満たされている。未来にも必要なものが巡ってくると信じ、失うことだけを恐れてはいない」という循環の意識があります。
お賽銭は、その意識を、現実の行動によって確定させる行為です。
そして、その状態に自分を置くことで、周波数も整っていく。
今ここに立てるまでに受け取ってきたご縁や体験に感謝しながら、これから先にもより良い未来が巡ってくることを信頼して、神様という大いなる存在の前にお金を手放す。
願いを叶えてもらうための料金として、お賽銭を入れてもいい。
でも、その見返りは、自分が思いつく以上に大きく、自由な形で返ってくるかもしれない。
それが、神様という大いなる存在に捧げるお金の意味でもあると思っています。
お賽銭の金額については、お賽銭はいくら入れたらいい?|お賽銭の話①で書いています。また、お賽銭を入れないことがある理由や、どこへ納めるかについては、お賽銭をしないで参拝してもいい?|お賽銭の話②もお読みください。
参考にしたお話:歌手・作曲家の總水とおまさんが語られていた、お賽銭と循環についての動画。動画内で紹介されていたエントロピーの考え方やブラックボックスという捉え方、約90日後の変化を記録する実験の発想を手がかりに、私自身の神社参拝の経験と考えを書いています。
※本記事は個人的な考え方であり、特定の行為や金額が、特定の金銭的・現実的な結果を保証するものではありません。