お賽銭をしないで参拝してもいい?|お賽銭の話②
私はお賽銭をしないことが結構あります。 実は、他の人と一緒に神社に行くと、結果的にお賽銭をする回数は私が一番少ないことが多いです。
この話の前提として、お伝えしたいことがあります。私は、神様はお金なんて要らないんじゃないかなと思っています。実体を持たない神様は、お金を使えないからです。ただ、神様が祀られている神社は現実に存在し、維持するにはお金がかかる。もちろん、神職の方はこんな下世話なことは言いませんが、現実的な話として、神社にとっては、お賽銭は多いほうがありがたいと思います。
現実の象徴であるお金は、神様には要らないけど、神社には要る。 これからお話しすることは、この前提に立ったら、私はこうなったという話です。
さらに大きな大前提として、「お賽銭は自由」ですから、違うと思ったなら、それがあなたの正解です。
小さな箱より、大きな箱にまとめて
伊勢の神宮や熱田神宮などの大きな神社には、中心となるお社のほかに、摂社や末社といった小さなお社がいくつもあります。 私はそれらをできる限り参拝させていただいています。 それぞれのお社には、多くの場合、小さなお賽銭箱が置かれています。 私は、これらの小さなお賽銭箱にはお賽銭を入れず、中心となるお社の前の大きなお賽銭箱にまとめて納めるようにしています。
これは、管理する側のことが頭に浮かぶからです。あちこちの小さな箱に小銭を少しずつ入れていくより、その大きなお賽銭箱に千円を一度納めるほうが、たぶん神社にとっては扱いやすいと思っています。
では、なぜこの小さなお賽銭箱は置かれているのでしょうか? 神社には、たまにお賽銭箱のないお社や御神木、御神池などのパワースポットがあります。 こうした場所には、お賽銭箱がなくても、一円玉や五円玉などの小銭が置かれていることが多いのです。 そのことに氣づいた私は、お賽銭箱についての見方が変わりました。
御神木の根元や、いわゆるパワースポットの岩などに置かれた小さなお賽銭箱は、「ここは入れるべき特別な場所」という意味ではないかもしれません。 小銭を散らかされるのを防ぐために、管理上やむを得ず置かれていることが多いのではないかと個人的には思います。 箱がなければ、参拝者が根元や岩の隙間にお金を差し込んでいってしまう。それが景観を損ね、掃除の負担になり、ときに木を傷める。だから「せめてここに」と場を守るための工夫として、お賽銭箱を置いているのかもしれないと、私は思うのです。
有名な金運神社より、小さな神社のほうが喜ばれる氣がする
これはあまり言われないことかもしれませんが…
金運上昇のご利益を求めて、何万人もの人が次々と多額のお金を納めていく。そういう有名な神社は、たぶんお賽銭にはそれほど困っていません。一方で、参拝者の少ない小さな神社は、維持していくこと自体がぎりぎりだったりする。
だとすると、同じ千円でも、その千円の意味は納める先によってずいぶん違うのかもしれません。潤っている大きな神社に納める千円よりも、人の来ない小さな神社に納める千円のほうが、重要な意味を持つでしょう。お賽銭も、足りているところよりも足りていないところに回ったほうが、お金として生きた使われ方になるだろうと思っています。 お金とは現実的なものですから…
だから私は、有名神社で大きく納めることもあれば、誰も来ないような小さな神社で、多めに入れることもあります。
お賽銭でなくても
お賽銭という形をとらず、御朱印をいただくことでお金を納めることも、私にとっては同じです。 御朱印の初穂料も、立派に神社を支えるお金ですから。
また、感動してご縁を深めたいと思った神社では、時として昇殿参拝(ご祈祷)をお願いして、万単位で納めることもあります。 お賽銭箱に小銭を入れるよりも、神社にとっても、私自身の体験としても、そして目に見えない神様にとっても、昇殿参拝のほうが喜ばれる形だと思います。
奥宮ではなく、里宮で
入れる場所について、もうひとつ。
神社には、ふもと側の里宮と、山頂の奥宮の両方を持つところが少なくありません。せっかく山頂まで登ったのだから、奥宮で入れたい、という氣持ちはよく分かります。
ただ、山頂の奥宮に入れたお金は、いつか誰かが回収して、山を下りて運ぶことになる。それを思うと、私は奥宮では手を合わせるだけにして、お賽銭は里宮で納めることが多いです。作法というよりも、辿り着くまでの道が険しければ険しいほど、小銭を回収して運ぶ人のことが、つい頭に浮かんでしまうというだけです。もちろん、せっかく登った奥宮でお賽銭を納めたという体験を味わいたい方を否定するつもりはありませんし、かつての私もそうでした。「険しい道を登り切った先の奥宮で千円札を入れたのだから、必ず良いことがあるはず」と思っていた時期もありましたし、この体験で意識がアンカリングされ、後に大きな意味を持つこともあります。私が今でこそ、こんな話をするのも、そうした体験があったからです。過去の体験を通じて、今は「どうせお金を払うなら、里宮で昇殿参拝しよう」と思うようになっただけです。
お賽銭はお願いの料金?
多くの人にとって、お賽銭はお願いの料金になっているのかもしれません。 お願いをする場の前にお賽銭箱が置かれていたら、そう思ってしまうのも無理はありませんし、それ自体を否定するつもりもありません。
ただ… 先にも申し上げたとおり、巨大な杉の御神木、弁天様が祀られた美しい池、御神水が湧き出る泉…その近くに小銭が置かれている光景をよく見ます。 お賽銭が料金ではないなら、そこに小銭を置く必要はないのではないか、と思ってしまうのです。 しかも、池に投げ込まれた小銭は、結局は誰かが拾い上げないといけないし、水を汚し、そこにいる生き物にも良くない。 ご利益を目的として神社に行くという価値観であっても、そんな行為がご利益につながるとは私には思えません。
今の私にとってのお賽銭
では、何のためにお賽銭を入れているのか、というと、今の私は二つの氣持ちからです。
ひとつは、感謝の氣持ちです。遥か昔から、神を祀る場所として、たくさんの人がこの場所を守り、保ってきてくれた。そのおかげで、私は今ここで手を合わせる体験をいただけた。その感謝を、お金というかたちで置いていく、という感じです。
もうひとつは、未来へつなぐ氣持ちです。今ここで自分が味わっている、このありがたさを、ずっと先の誰かにも残したい。この神社が、これから先も在り続けてほしい。お金を置いていくのは、未来にこの神社を参拝する自分や、この神社にご縁のある人へ、素晴らしい体験をつなぐ氣持ちの表れです。
でも、散々書いておいてなんですが…神社に祀られている神様は、たぶんお金なんて氣にしてません(笑) お賽銭を氣にしているのは、あなた自身の意識にほかなりませんから、正解はあなたの中にしかないことでしょう。
金額のほうの話は、別の記事(お賽銭はいくら入れたらいい?|お賽銭の話①)に書きました。
このコラムは、お金と意識の関係を扱う読みものの一部です。「お金は意識の状態を映すいちばん正直な指標である」というテーマは、お金のカテゴリーや金運調律セッションのご案内でも書いています。
※変化の現れ方には個人差があります。特定の金額や行為が特定の結果をもたらすことを保証するものではありません。