神社で何をお願いすればいいか?
鳥居の前で足を止め、一礼をして神社の境内へ入ると、そこはご神域。 日常生活から離れ、多くの人の意識が変わることでしょう。
境内に入っただけで、いつも頭の中を占めていたこと… 仕事のこと、家族のこと、身体のこと、お金のこと、これからのこと…日頃から頭の中を占めていた思考が静かになる…という方もいらっしゃるでしょう。 また、参道を歩き、手水で手を清め、拝殿へ向かっているうちに、意識が整っていくこともあるでしょう。
拝殿の前に立つと、
「自分の本当の願いは何だっただろうか…」
とあらためて意識するかもしれません。
ご祈祷を申し込むときには、家内安全、身体健全、病氣平癒、商売繁盛、良縁成就、学業成就、交通安全、心願成就など、さまざまな願意が並んでいます。
その一つを選ぶときも同じです。
「商売繁盛」と書く人は、単に売上を増やしたいだけではないかもしれません。「商売繁盛」には、今の仕事を続けたい。家族を安心させたい。関わってくれる人に、より良いものを返したい。自分を信じて任せてくれるお客様や、支えてくれる取引先、仲間に応えたい。多くの社長のそんな思いが、その四文字に込められていることでしょう。
「病氣平癒」という願いも同じです。ただ症状がなくなることだけではなく、もう一度仕事をしたい、家族と出かけたい、子どもや孫と時間を過ごしたい、自分らしく生きたいという願いがあるかもしれません。
願いは、一見すると自分だけのものに見えます。
けれど、その奥を丁寧に見ていくと、そこにはいつも誰かとのつながりがあります。
お金を得たいと思ったとき、その先には、家族に安心してもらいたいという思いがあるかもしれません。仕事を続けるためかもしれません。世話になった人に返したいのかもしれません。自分が余裕を持てたら、誰かに食事をごちそうしたい、学んだことを人に伝えたい、困っている人の役に立ちたいと思うこともあるでしょう。
願いが叶った先に、自分だけではない誰かの姿が見えてくる。
そこに氣づくと、願いは「自分に何かをください」という言葉だけでは収まらなくなります。
今まで受け取ってきたものがあり、その続きとして、これから誰かへ渡していきたいものがある。
神社参拝とは、その願いの先の流れが次にどこへ向かうのかを、神前で見つめ直す時間なのかもしれません。
願いの奥をたどると、受け取ってきたものが見えてくる
商売繁盛を願う人には、すでに仕事を任せてくれる人がいるはずです。学んできた技術や知識があり、共に働く人がいて、使える時間や場所もあることでしょう。
健康を願う人にも、今日まで生きてきた時間があります。育ててくれた親、支えてくれる家族や友人がいるかもしれません。病氣は不本意でしょうが、もしかしたら何かに氣づくための必要な体験なのかもしれません。
良縁を願う人も、誰かと出会い、関係を育てられる自分になるまでに、多くの人との関わりを経験してきたはずです。
自分はすでに多くのものを受け取り、その続きを生きていることに氣づくこと、それが感謝です。
神社で手を合わせるとき、過去から今に至るまでのご縁で頂いた体験を味わい、感謝して静かに受け取る。
すると自然と湧き上がってくる願いは、今の自分にないものを奪うように求める言葉ではなく、すでに受け取ってきた流れを、これからどのように生かしていきたいかという希望にもなるでしょう。
鏡から、我を抜く
多くの神社では、拝殿の奥に一枚の鏡が祀られています。
手を合わせて顔を上げたとき、そこに映っているのは、神様の姿ではなく、自分自身です。
いつしか、この鏡には一つの言葉が添えられるようになりました。
「かがみ」から「が」を抜くと、「かみ」になる。
「が」とは、我。自分だけが、自分さえ、と奪うように求める心です。
その我がそっと薄れたとき、残るのは、もともとの澄んだ自分。鏡は何も足さず、何も奪わず、曇りが払われればありのままを映すだけです。
意識が整うとは、我という曇りが落ちて、本来の自分がまた映りはじめることなのかもしれません。
祈りは、「意宣り」
「いのり」とは、もともと「意宣り」――自分の意(い)を、宣(の)ることだとも言われます。
神様に「叶えてください」と乞うのではなく、受け取ってきたこの流れを、これからこう生かしていく、と意を宣言すること。
これは、意識の考え方とも重なります。「足りない」という欠乏から出た言葉は、同じ欠乏の現実を呼ぶ。けれど既に豊かさに満たされた感謝から整えた意を宣ったとき、人はその意にふさわしい豊かな現実の流れへと、静かに同調していきます。
我を抜いた澄んだ心で、意を宣る。それは、最も整った意識から現実を選ぶ作法そのものです。
そうして「ください」という我の意識が、感謝の中で薄れたとき、お願いは、自然と意宣りに変わることでしょう。
祈りが公へとひらくとき
日本人の祈りのお手本ともいえるのが、天皇陛下のお祈りです。
祈られているのは、ご自身のことではなく、いつも国安かれ、民安かれ。自分のためではなく、公(おおやけ)のために祈る――最も澄んだ鏡のような祈りです。
そうした宮中祭祀に深く関わり、神祇伯を代々務めた白川伯王家に伝わる神道が、伯家神道です。そこで大切にされてきたのも、願いを叶える技術ではなく、我を祓い、心身を清め、本来の澄んだ状態に還ること。ただ整い、ただ澄む、その素朴さの奥に、祈りのエッセンスが流れています。
ここから受け取れるのは、祈りとは、我を抜くほどに澄んでいくものだ、ということ。自分だけの願いよりも、誰かの安らかさまでを含んだ祈りのほうが、自然と大きな流れにつながっていきます。
そして、同様に私たちも、公という社会、人とのつながりがあればこそ、心安らかに生きられるはずです。
誰も一人では生きられないのですから。
結局、何をお願いすればいいか
神社とは、願いを叶えてもらう場所であると同時に、鏡の前で我を抜き、本来の自分に還る場所ともいえます。
本当の自分に還った周波数は、豊かな現実を引き寄せます。
だから、願意がなくても、神社に行くだけで豊かな現実を引き寄せると私は思っています。
ただ、友達とご祈祷に行くことになったけど、神様にお願いする願いなんてない、という方もいるかもしれません。
そんな方には「神恩感謝」がおすすめです。
表に出てなくても、社務所で神職の方に言えば多くの場合、対応してくれると思います。
感謝は、目の前の現実をただ受け入れる愛であり、最高の周波数ですから。
自分に今あるものを丁寧に見渡して受け取り、感謝の氣持ちを、素直に神様へお伝えしてみてください。
その祈りが、あなたにとって最も豊かな世界線を選ぶ、一歩になるかもしれません。