以和尽礼 のお話
以前の記事で少し触れた「以和尽礼(いわじんれい)」という言葉について、今日は詳しく書いてみます。
和を以て、礼を尽くす。
私がこの言葉に出会ったのは、思考の学校・校長の宮増侑嬉(大石洋子)先生が、ある動画で語っていた話を通してでした。
神々を鎮めた、おばあちゃんの話
宮増先生はかつて、神様からのメッセージを受け取るおばあちゃんと共に、各地を巡っていたといいます。
神話に語られる通り、神々の間には、かつて争いや諍いがありました。そして、その遠い記憶に強く囚われたまま、本来あるべき場所へ還れず、土地や神社に留まり続けている存在がいる。おばあちゃんは、そうした存在のもとを訪ねて回っていたそうです。
その鎮め方が、以和尽礼でした。
自分は、その出来事に何の関係もない。悪いことなど何もしていない。それでも、ただ代表して、こう声をかける。
今まで氣づかずにいて、ごめんなさい。氣づかせてくれて、ありがとうございます。どうぞ、本来の姿へ戻ってください――。
非難するのでも、誰かのせいにするのでもなく、ただ詫び、感謝を捧げ、調和を祈る。すると、その存在は安らいで、還っていく。
宮増先生は、この一見ふしぎな話を、ご自身が伝えている「思考が現実化する仕組み」へと繋げていきます。
私たちの目の前の現実は、自分の潜在意識――その奥にある思考や記憶が、映し出したものだといいます。
ところが、人生がうまくいかないとき、現実がこじれているとき。私たちはたいてい、「誰が悪いのか」を探してしまう。あの人のせいだ、あの出来事のせいだ、自分は正しくて相手が間違っている、と。
先生は、この「ジャッジ」こそが、現実が変わらない最大の原因だと語っていました。誰が正しいか間違っているかをめぐって、互いに正しさをぶつけ合う。そのエネルギーの応酬が続く限り、報復し合うような現実が生まれ続けてしまう、と。
だからこそ、必要なのは、相手を変えようとすることではない。目の前の現実を自分の映し出したものとして引き受け、自分の内側を整えることだと仰っていました。動画を見た当時は頭で理解しただけでしたが、今では腑に落ちます。
人生は頭を下げる修行かもしれない
以前、当時3歳だった娘が母親に向かって物を投げたことがありました。躾のために、私は「お母さんにごめんなさいしよう」と娘に促しました。
でも、普段は素直な娘はなぜか頑として頭を下げませんでした。「早くごめんなさいして、早くイ◯ンに行こう。美味しいもの食べられるし、おもちゃを買ってもらえるから。」と言っても聞きません。いつも大好きな母親に対してです。
その娘の姿を見たとき、私は氣づきました。
人間というのは、自分は悪くないと思っているとき、頭を下げることが、とてつもなく苦手な生き物なのだ、と。物心もつかない3歳の子が、すでにそうなのです。これは後天的に身につけた頑固さではなく、人間にもともと備わった性質なのかもしれません。
よくよく考えてみると、世の中で立場の高い人ほど、自分が悪くなくても、頭を下げています。組織の長は、部下の不始末を代表して詫びる。地位が上がるほど、自分のせいではないことで頭を下げる場面は増えていく。
もしかすると私たちは、人生をかけて、「自分は悪くないのに頭を下げる」という修行をしているのかもしれません。
自分と、世界を切り離さない
以和尽礼とは、自分と目の前の相手を切り離さない、という態度だと思っています。これは、現代科学における意識の話にも通じます。
目の前の現実は、自分とは無関係な、外側の出来事ではないのかもしれません。自分の意識が映し出した、自分の一部のようなもの。だとすれば、それを攻撃することは、自分自身を攻撃することと同じになってしまいます。
逆に、目の前の現実に和を以て礼を尽くすとき、整うのは相手だけでなく、自分自身の内側です。
そして、自分の内側が整えば、不思議と、映し出される現実のほうも変わっていく。
宮増先生やおばあちゃんが囚われてしまった目に見えない存在を鎮めたように、私たちもまた、自分の日常の中で、こじれた現実を一つひとつ、和を以て鎮めていけるのかもしれません。
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