神社の小さな祠|摂社・末社と御朱印のすすめ
あなたは、神社にどれくらいの時間、滞在していますか?
鳥居をくぐり、手水で清め、本殿でお参りして帰る──この流れなら、よほど敷地が大きな神社でなければ、10分もかからないと思います。実際、多くの方の参拝は、このくらいではないでしょうか。
一方、スピリチュアルの世界では、氣の良い場所ではいつもの倍くらいゆっくり歩き、30分ほど滞在すると良い、と語られることもあります。もちろん、短くても丁寧にお参りすれば良い、という考え方もあります。
何を目的にするかによっても当然変わる話ですので、正解はありません。
その上で、私の考えをお伝えすると──境内には、できればゆっくり長めにいる方が良いと思っています。
あくまでも、私にとって神社参拝はヒーリングそのものだからです。
人は場の周波数に同調します。神社という整った場に身を置く時間が長いほど、自分の周波数も、深く静かに整っていく。せっかく足を運んだのなら、すぐに帰るのは少しもったいない氣がするのです。
今の私の場合、大きな神社に行った場合には、大抵30分程度は境内に居るかと思います。
別に滞在時間を意識したわけではなく、御朱印を頂くようになったらそうなった、というだけの話です。
今回は、御朱印の話と、そこから摂社・末社にご縁を頂いて、神社参拝の時間が豊かになったという話をしようと思います。
御朱印は「徳を積んだ証」だった
御朱印は、もともとお寺に写経を納めた証としていただく「納経印」が起源とされています。つまり御朱印とは、最初からただの参拝記念ではなく、神仏とご縁を結び、徳を積んだ証だったのです。
だからこそ、こんな言い伝えが今も残っています。
亡くなった時、御朱印帳を棺に納める──四国遍路や西国巡礼の文化では、満願した納経帳や御朱印帳は、あの世への通行手形とされてきました。閻魔様のお裁きの際に、「生前、これだけ神仏を拝み、徳を積んでまいりました」という証としてお見せするのだそうです。実際に、ご家族の棺に御朱印帳を納める風習は、今も各地に残っています。
御朱印帳とは、あの世まで持っていける、数少ない持ち物といわれているのです。
もっとも、ここ十数年の御朱印ブームで、いろんな考え方も生まれました。
御朱印はスタンプラリーではない、まず参拝を済ませてからいただくものだ、という作法を重んじる考え方。実際、参拝もせずに授与所へ直行する方や、いただいた御朱印を転売する方まで現れて、苦言を呈する神社もあると聞きます。
その一方で、集めるうちに神社仏閣に親しみ、自然と氣持ちが育っていくのだから、堅苦しいことを言わず、入口はスタンプラリー感覚でも良いではないか、という寛容な考え方もあります。
そして、御朱印そのものも、進化を続けています。コロナ以降は書き置きの御朱印が定着し、それをきっかけに、神社ごとの個性が花開きました。金の装飾が施された豪華絢爛なもの、繊細な切り絵のもの、透明な素材を使った今までにないもの──御朱印帳を開くたびに楽しくなるような、美しい御朱印をいただける神社が増えています。
ブームは賛否を生みましたが、それだけ多くの人が神社とのご縁を結ぶようになった、ということでもあります。
私は、どの考え方も否定しません。神社との向き合い方は、人それぞれで良いのです。
その上で申し上げると、私も神社に行ったら、参拝の証としていただいています。
御朱印帳は、自分の世界線の記録
正直、コレクター的な氣持ちもあります。美しい墨書きと朱印が御朱印帳に増えていくのは、単純に嬉しいものです。
ただ、私が御朱印をいただく一番の理由は、別のところにあります。
日付が書き込まれるからです。
御朱印には、神社の名前とともに、参拝したその日の日付が墨で記されます。つまり御朱印帳を開けば、「自分がいつ、どの神社にいたのか」が、一冊の記録として残っているのです。
後から見返すと、いろいろなことを思い出します。
この日は、あの人とこの神社に行ったんだった…この頃は毎週のようにこの辺りに通っていた…この参拝の後から、流れが変わり始めたんだった…などなど、過去の記憶と共にその時の神社が思い出され、その時の体験とご縁を頂いた神社に感謝の念が湧いてくるのです。
御朱印帳とは、私にとって、自分の意識の変化をたどれる、世界線の記録ともいえる存在です。参拝の記録は、そのまま自分自身を振り返る記録になります。これが、私が御朱印をいただき続けている何よりの理由です。
この世では自分の世界線の記録になり、あの世では徳を積んだ証になると考えたら、御朱印帳とは、なんとも粋で不思議な存在です。
御朱印集めが、氣づかせてくれるもの
そして、御朱印集めには、もう一つの効用があります。
摂社・末社の存在に、自然と氣づくようになるのです。
御朱印をいただくようになると、境内を隅々まで歩くようになります。社務所で「こちらのお社の御朱印もありますよ」と教えていただくこともあります。すると、本殿の脇や、境内の奥、参道の途中に、小さなお社や祠がいくつも鎮座していることに氣づくのです。
これが、摂社・末社です。
摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)とは、本社に付属してお祀りされている、境内の小さなお社のこと。一般的には、主祭神とゆかりの深い神様──后神(きさきがみ)や御子神(みこがみ)、荒魂(あらみたま)、そしてその土地の地主神(じぬしがみ)など──をお祀りするのが摂社、それ以外が末社とされてきました。今は神社ごとの伝統によるところも大きいようですが、いずれも本社と深い関わりのある神様たちです。
摂社・末社はその神社の境内にあることも多いですが、稀に、何十kmも離れた場所に鎮座するお社を案内されることもあります。
奥宮の御朱印のために山を登らされる、なんてことも普通にあります(笑)
そうやって、遥か彼方の神社にも足を運んだ結果、そこで素晴らしい体験ができた、という経験を私は何度もさせて頂きました。
御朱印は、新たな神社とのご縁と体験を運んでくれたりもするのです。
だから、御朱印集めは、ただのスタンプラリーではなく、神社参拝のより深いレイヤーへの入口なのです。
小さな祠にこそ、大事な神様がいる
ここからは、私のファンタジーです。
摂社・末社に祀られている神様は、実は主祭神よりも重要な場合も多いと、私は思っています。
というのも、摂社・末社には、その土地に元々お祀りされていた地主神──つまり、主祭神がいらっしゃる前から、その土地を守ってこられた神様がお祀りされていることがあるからです。中には、歴史の事情で表舞台から退き、ひっそりとお祀りされている、いわば「隠された神様」もいらっしゃると言われます。
神様の世界にも、諍いと交代の歴史があるのです。
こうした神様たちに、「以和尽礼」するのが私の使命とも思っています。
私にとって、社殿の大きさと、神様の働きの大きさは、関係ありません。
会社に例えてみましょう。
主祭神がお祀りされている本殿だけに参拝するのは、会社を訪問して、社長や会長にだけ挨拶して帰るようなものです。
もちろん、トップへのご挨拶は大切です。ただ、実際にあなたの案件を動かしてくれるのは、現場の担当者かもしれません。私も長く会社組織に所属していますが、トップに氣に入られるより、現場の担当者に信頼される方が、物事が動くことは珍しくありません。
それに、引退してなお絶大な権力を持った会長が、密かに作業着で掃除をしながら、自分の会社の本当の姿を眺めている、なんて話も物語の世界ではよくある話です(笑)
神社も同じではないか、と私は思うのです。境内の隅の小さな祠に祀られた神様が、実はその土地の影の支配者だったり、実務を担っていらっしゃるのかもしれない。だとしたら、素通りはできません。
以上は、あくまでも私のファンタジーの話ですが、そうやって小さな祠に思いを馳せながら境内の隅々までまわっていくと、それなりの時間が経ってしまっていることに氣づくのです。
そして参拝の締めくくりに御朱印をいただけば、その日の日付とともに、参拝の記録が一冊に刻まれていきます。
本殿だけの参拝が5分なら、この参拝は30分。周波数の話だけでなく、この時間は私にとって、豊かで楽しいものです。
小さな祠と御朱印が、教えてくれたこと
最後に、摂社・末社を回るようになってから、私自身が氣づかされたことを書いておきます。
それは、「察する」ということです。
摂社・末社の由緒は、神社でも表に出されていないことが多いものです。詳しい案内板のない、小さな祠も珍しくありません。
だから、祠の前に立つと、自然と考えるようになります。
ここは、どういう場所なのか。なぜ、ここに祠が置かれているのか。なぜ、この御祭神がお祀りされているのか。主祭神とは、どういうご関係なのか──。
答えの書かれていない問いを重ねるうちに、目に見えているものの奥を察する習慣が、少しずつ育っていきました。
そして、この見方は、そっくりそのまま、現実の人間関係にも当てはまるのです。
立派な社殿は、誰の目にも留まります。一方で、境内の隅の小さな祠は、視界に入っていても、意識して歩かなければ素通りしてしまう。見えていないのではありません。見ようとしていないだけなのです。
人も、同じではないでしょうか。
肩書きが立派な人、声の大きな人、華やかな人には、自然と目が行きます。でも、あなたの現実を実際に支えてくれているのは、もっと静かな存在かもしれません。目立たないけれど、毎日職場を整えてくれている人。当たり前すぎて意識にすら上らない、家族の日々の働き。いつものお店で、丁寧に仕事をしてくれている店員さん。
目に見えている人の向こう側にある、見えない働きや事情を察する──無数の小さなお社に参拝することで、私の人との向き合い方も変わってきました。
社殿の大きさと、神様の働きの大きさは、比例しません。同じように、人の見た目や肩書き、能力といった目に見えるものに惑わされることが少なくなり、人を上下で捉える価値観も、次第になくなっていきました。
全ての人が神であり、自分も他人も、存在するだけで同じように価値があり、それぞれが異なる役割を持ち、人生をかけて自分の神性を取り戻す修行をしているのだと、今は思っています。
豪華な本殿に目を奪われて、本当に大事なものを見逃さないように、派手なものに氣を取られて、大切な人を素通りしないように氣をつけたいものです。
今、私は神社巡拝ヒーラーとして、こんなことを書いていますが、思い返せば、スタンプラリーのような御朱印集めも、その過程の一つでした。
御朱印集めというのは、古来からの本当によくできた神仕組みだと思います。
意識を整えるための三位一体調律(トリニティヒーリング)について詳しく見る →