ヒーリングとサイキック

察する力とは|日本人に眠る、縄文時代からのサイキック

日本人は、言葉にしない、シャイな民族だとしばしば語られます。

好意を言葉にしない。不満も、なかなか言葉にしない。

言葉を尽くして、身振りまで使って伝える文化圏に比べると、日本語の会話は、言わないことの側に多くの情報を乗せる傾向がある、とよく言われます。

日本人のなかなか言葉にしない態度を、否定的に捉えている意見を目にすることもあるかもしれません。

確かに、ビジネスの世界などでは、報告、連絡、相談の「報連相(ほうれんそう)」を効果的に行って意思疎通を明確にすることが重要な場面も多いことでしょう。

ただ、家族間やパートナーシップ、友人同士などの純粋な人間関係においては、「口は災いの元」にもなりえます。

むしろ、「言わなくても分かるでしょ」「口に出すのは野暮」──そんな感覚が、私たちの日常には深く根づいています。

では、なぜ言わないのか。

日本人は言わなくても、察することができたからでしょう。

察するとは、表情や様子、場の氣配などから、言葉にされていない様々な情報を感じ取ること。この日本人の特徴を、私はサイキックそのものだと理解しています。


察する力は縄文時代に磨かれた──という説

歴史を教える予備校講師で作家の茂木誠先生が、面白い見方を語っていました。

世界の多くの地域が農耕へ移っていった時代、山の豊かな日本列島では、狩猟採集の縄文文化が一万年以上も続きました。そして森で生きるということは、見る・聞くだけでは足りない世界で生きるということでした。

森の中は、木々にさえぎられて先が見えません。ガサガサと音がする。その向こうにいるのは獲物か、それとも熊か。目でも耳でも分からない。それでも、木の向こうの氣配を感じ取れた者だけが、生き残った──。

茂木先生はこれを、見る・聞くを超えた第六感と呼びます。しかも狩りは、大人数では動けません。少人数で、黙って、その日の直感を頼りに森を歩く。言葉のいらない世界です。

一万年を超えるその暮らしの中で磨かれた感覚が、以心伝心、空氣を読む、察する、という形で今も日本人に残っているのではないか──学術的にはさておき、私は茂木先生のこの説に共感します。


言葉には大きな力が宿る

日本人が言わない理由は、もう一つあると、私は考えています。

日本には古くから、言霊(ことだま)──言葉には力が宿る、という感覚がありました。『万葉集』にも、日本を「言霊の幸(さきわ)う国」と呼ぶ歌が残っているほどです。

口に出した言葉は、現実に働きかけてしまう。だから、軽々しく言葉にしない。祝いの席で忌み言葉を避けたり、不吉なことを口に出してはいけないと思う感覚は、今も生きている言霊の名残です。

言葉を大切にするからこそ、言葉の使い方が慎重になる。

言葉と言霊については、重要な話なのであらためて書きます


農耕文化と同調圧力

ところで、「察する文化」の話には、よく一緒に語られる言葉があります。

同調圧力です。

茂木先生の説では、同調が強くなったのは農耕からだといいます。田植えも稲刈りも、村人総出の集団作業。全員で揃って動くことが、村人全体の生存のために求められます。一人だけ昼寝をしているわけにはいかないでしょう。

こうして、集団生活の農耕文化から、同調圧力が始まったと茂木先生は指摘します。

一方、縄文文化の狩猟採集は少人数で、その日の直感で動く営みでしたので、基本的に自由氣ままな生活です。

この辺りが弥生文化と縄文文化の精神的な違いになっていたのかもしれません。

弥生文化で農耕が生活の主流になるにつれ、日本人が「察する」主な対象が、自然や動物から、次第に人間同士へと変わっていったのかもしれません。

同調もまた、察する力の働きです。

みんなに合わせられるのは、そもそも場の空氣を受信できているからです。誰が何を望んでいるか、この場で何が求められているか──それが読めない人は、合わせることすらできません。空氣を読んで合わせるのも、空氣を読んで動くのも、受信している力は同じ一つのもの。

だから、同調圧力も以心伝心も察する力の表れです。

違いは、その力を使っている周波数(意識)の帯域にあるとも言えるでしょう。

嫌われたくない、外されたくないという、恐れの帯域や低い周波数に同調すれば、自分の周波数も低くなります。

逆に安心の帯域で使えば、同じ力が、思いやりや氣配り、場の調和になり、相乗効果で大きな力にもなり得ます。

弥生文化から現在に至るまで、為政者は日本人を支配・コントロールするために同調圧力を利用してきた、と私は見ています。故に、ここに同調し過ぎれば、自然と周波数は低くなりやすいことでしょう。

だからこそ、私たち日本人は、周波数と同調について、特に自覚した上で慎重に行動を選択する必要があると思います。


エンパスは察する力が強い人

察する力が、人一倍強く働いてしまう方もいらっしゃることでしょう。

人と会った後、理由もなくぐったりしている。相手が落ち込んでいると、自分まで沈んでしまう。家族の機嫌が悪いと、その場にいるだけで苦しい。初めての場所に入った瞬間、なぜか「ここは長居したくない」と分かる。逆に、理由もなく安心する場所がある──。

人の感情や場の空氣を受けすぎて疲れる、エンパスやHSPと呼ばれる人たちです。

こうした感覚は、言葉にされていない多くの情報を受け取っている、察する力の働きとも言えます。受け取る力が強い分、恐れの帯域で使い続ければ消耗も深くなり、安心の帯域で使えれば、人一倍豊かに感じ取れる。

受信機に例えるなら、あまりにも高性能過ぎるということです。

だからこそ、こうした体験をお持ちの方は、どの帯域の情報を受信するかを自覚的に選択することが重要課題となります。


意識レベルが上がるとどうなるか

その上で、意識レベルと言葉について、私の捉え方をお伝えします。

ホーキンズ博士の意識のマップを見ながら、その帯域に常在する人をイメージしてみて下さい

最も上の帯域、悟りにいる人を想像した時、どんな人が浮かび上がってくるでしょうか?

誰もが理解しやすいように私のイメージを挙げるとすれば、天皇陛下です。

もちろん、天皇陛下が実際にどのような生活をされているのか、私たち一般人が知る由もありませんが、天皇陛下がお言葉を発する時、とても慎重にお言葉を紡がれているであろうことは理解できます。

「〇〇でなければならない」「〇〇すべきである」「〇〇は間違っている」という類のお言葉を発せられている情報に触れたことがありませんし、想像することすら難しいです。

一方で、低い意識レベルの帯域に常在する方を想像してみて下さい。

いかがでしょうか?

恐れや不安の帯域にいるとき、頭の中は雑音だらけになりがちです。不満、言い訳、自己弁護、誰かへのジャッジ──内側が騒がしいから、外に出る言葉も多くなることでしょう。

意識レベルが上がるほど、人は静かになると私は思っています。

意識が整い、安心と感謝の帯域に上がっていくと、まず頭の中が静かになります。すると、言葉が減ります。言う必要が、なくなっていくからです。

また、意識の周波数が整うことで、現実的にも勝手に整い、ますます不平不満を言葉にする機会が自然と減っていく、というのが私の実体験です。

私自身も、以前はエゴのままに大声で好き勝手に話すようなタイプでしたが……(笑)

最近は人が変わったようだとびっくりされることが多いです……

そして、静かになった分だけ、受信が増えます

雑音が静まると、もともと届いていた情報に氣づけるようになる──サイキックな感覚が開くとは、そういうことだと思います。私にとって、察する力とは、このようなサイキック的に受信する力を日常的な日本語として表現した言い方です。

縄文のご先祖さまたちが森の氣配を察することができたのは、特別な能力者だったからではなく、静かな意識で生きていたからだとも思っています。

私自身、無数の小さなお社に手を合わせる参拝を重ねる中で、目に見えているものの奥を察する習慣が、少しずつ育っていったのだと今振り返れば思います。

日本人にとって、それは新しい能力への進化のようでありながら、実は思い出すことなのかもしれません。


本来の日本人へ

日本人があえて言葉にしないのは、お互いを察することができるからだと私は思います。

察する力は、静かに意識を整えることで自ずと開いていきます。

頭の中の雑音を減らし、常在する意識の帯域を、恐れから安心へ。

日常の中で、静かな場を選んだり、瞑想などの習慣によって、自分が静かに過ごす時間を、意識的に少しずつ増やしていく。

静かになるほど、色々な情報に氣づくようになります。

「言わなくても分かる」は、ただの古くさい習慣ではなく──縄文から受け継いだ、私たちの中のサイキックが、まだ生きている証、と言えるかもしれません。

言葉にならないものを、受け取れる、本来の日本人へ。

その感覚を、恐れではなく、愛と調和のために使えるようになった時、お一人お一人が、天から与えられた本来のお役目を果たせるようになるのだと思います。


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著者|白川愁士(世界線調律所 所長/神社巡拝ヒーラー)

不動産投資家。お金を追い求めた末に、神社参拝が日常となり、結果的に「神社巡拝ヒーラー」となった。現在は三位一体調律(トリニティヒーリング)で心・身体・現実(お金の流れ)を整えている。宅建士・FP保有。 ▶ プロフィール