あります(笑)。少なくとも私はそう考えています。神社という整った場所に身を置くことで意識が整い、その後の選択や現実の流れが変わっていくことがあります。
よくある疑問への
所長の一問一答
氣になっていること、今知りたいことにお答えします。
それぞれの問いに、所長である白川愁士からの一言回答と、
もう少し深く知りたい方のための記事を選びました。
成功者ほど、直感や流れ、ご縁といった、目に見えないものを大切にしています。経営者が神社に参拝するのも、自分の意識を整え、良い状態から判断することの大切さや、努力だけで成功することが難しいことを、経験から知っているからだと思います。
お願いしても構いません。ただ、成功者の多くは、神社で感謝を伝えることを大切にしています。願望実現の仕組みから見ても、「足りないからください」という欠乏より、すでにあるものへの感謝の周波数に、豊かな現実が引き寄せられやすいでしょう。
金額は自由です。神様はお金を必要としない存在ですから、極論なくても大丈夫です。ただ、神社にとっては多ければ多いほど嬉しいでしょう。また、お賽銭という全く見返りのないことに、大きなお金を手放せるような意識の方は、自然と良いことに恵まれるでしょう。
お賽銭ができないからという理由で参拝されないよりも、お賽銭がなくても参拝してもらう方が神様は喜ばれることでしょう。私自身、お賽銭をしない時もあります。神社を維持するためには、お金が必要ですが、その意味では御朱印やご祈祷の初穂料も神社を支えています。
私は、そうは考えません。神さまは遠いご先祖さまともいえる存在です。神さまの私たちに対する気持ちが、祖父母が孫を見守るような「親心」に近いものだと思えば、作法や形式を間違えないことより、敬意と感謝の方がずっと大切でしょう。
正解はありません。ただ、その神社が「整った場」だと感じるなら、急いで帰らず、少しゆっくり過ごすのもおすすめです。その神社の整った場の周波数に、より深く同調できるからです。
自由です。たくさん巡りたい日なら、それも良いですし、一社でゆっくり過ごしたい日なら、それでも良いでしょう。一日で数多くの神様にご縁を頂くことも、一つの神様や神社に時間をかけて深く同調することも、それぞれに良さがあるものです。
摂社・末社とは、本社に関連して祀られている小さなお社です。すべてに参拝しなければならないわけではありませんが、氣になったなら、ぜひ参拝してみて下さい。主祭神と深い関係のある神様や、その土地で古くから祀られてきた神様がいらっしゃることがあります。
御朱印は、神様とご縁を頂いた証です。今世で徳を積んだ証として、亡くなった時に棺桶に入れる風習もあります。もちろん御朱印目的の参拝でも良いと思います。そこから神社とのご縁が深くなっていくなら、それも素敵な参拝の形でしょう。
御祭神とは、その神社にお祀りされている神様のことです。古事記や日本書紀など神話の内容を知ると、どんな神様なのか、その物語や土地との関係を知ることができます。神様のことを知ると、神社やそれぞれの地方の見え方も変わり、神社参拝や国内旅行がより楽しくなります。
全国の稲荷神社や八幡宮のように、同じ系統の神社が全国各地にあるのは、神様の神霊を分けて祀る「分霊」や、神様を新しい土地へお迎えして祀る「勧請」という仕組みがあるからです。神道では、神霊は分けても元の神様が減ることはなく、分けられた神様も同じ働きをするとされています。
神社が違っても御祭神が同じなら、ご縁の先は同じ神様、と見ることができますし、分霊という仕組みも、その考え方で捉えられます。ただ、長い歴史の中で、各神社に諸事情があります。元々は違う神様が、後世に同一視されたり、習合して祀られたりすることもあるため、「同じ名前だから完全に同一」と単純に言い切れない場合もあります。
同じ神様でも、『古事記』と『日本書紀』などの文献による違い、漢字の当て方、地域や神社に伝わる伝承などによって、名前や表記が異なることがあります。たとえば須佐之男命と素戔嗚尊は、どちらもスサノオを表しますが、違う字をあてたことにも理由があるでしょうし、その諸説を考えることも面白いものです。
同じ神社の名前を何度も見たり、なぜか氣になったりすることがあります。呼ばれたかどうかを確認したり、検証したりする必要はありません。氣になるなら、行ってみれば良いのです。呼ばれていなくても、行って良いのですし、実際に神社に行ったということは呼ばれたのだと思います。
張りつめていた意識が、神社という静かな場所でゆるんだ反動(好転反応)かもしれません。心地良い眠氣なら、「良い参拝だった」と受け取って、ゆっくり休めば良いと思います。
ご祈祷とは、拝殿に上がり、神職の方に神様へのお取り継ぎをしていただく参拝で、昇殿参拝や正式参拝などと呼ばれることもあります。そこで奏上される祝詞には、言葉の意味だけでなく、長い年月、多くの人によって祈りとして積み重ねられてきた特別な情報があると私は考えています。
特別なことをしなくても、ご先祖さまへ意識を向け、今ここまで命が続いてきたことに感謝することだと私は思います。その時間そのものが、先祖供養になることでしょう。
素粒子は波の性質を持ち、脳波も周波数で表されます。私は意識も周波数として捉えています。人や場所に触れたときに感じる「なんとなく心地良い」「なぜか重い」という感覚も、周波数と同調という考え方から見ることができます。
デヴィッド・R・ホーキンズ博士が言及している概念です。意識には、恐れや欠乏に近い状態から、安心、受容、愛、喜びへと向かう「高さ」がある、という捉え方です。人の優劣の概念ではなく、今どの意識状態にあるかという「在り方」の概念です。
そんな日は、意識の状態が環境と合っていないのかもしれません。焦りや緊張が強い日は、判断や受け取り方が狭くなりがちです。逆に整った日は、同じ自分でも物事が自然に噛み合うことがあります。「流れ」の違いは、運だけではなく、意識状態の違いとして見ることもできます。
顕在意識で「もうしない」と決めても、無意識領域にある長い時間をかけて作られた習慣や感情のパターンの情報量は膨大ですから、すぐには変わりません。顕在意識を船の舵、潜在意識を巨大な船体にたとえれば、舵を切っても、大きな船がすぐには曲がらないように、行動変化には時間がかかるのです。
意志が弱いのではありません。分かっていること(顕在意識)と、そうでない無意識の領域では、無意識の方が圧倒的に情報量が大きいので、「いつもの自分」の無意識の前提が変わらなければ、元に戻ることが自然ともいえます。本人が無意識領域まで変わることを望んだ時、自ずと行動も変わります。
不安の多くは、まだ起きていない未来について考えることで生まれます。脳には危険を探そうとする働きもあるため、考えないようにするほど止まらなくなることがあります。そんなときは、深呼吸や瞑想をして、身体と「今ここ」に意識を戻し、まず自分の心や感情を俯瞰してみるのが良いでしょう。
顕在意識でないという意味で、潜在意識や集合意識、そして超意識も無意識の領域と私は捉えています。潜在意識は、汗が出るなどの身体の反応やトラウマ、思い込みなど「自分の当たり前」の領域です。集合意識は、お金や一般的価値観など「他人と共有している当たり前」の領域です。さらに超意識は、個を超えたワンネスの領域と捉えています。
苫米地英人博士は、私たちが生きる世界を、物理空間を内包した情報空間として捉えています。情報空間には、言葉、概念、記憶、価値など、抽象度の異なる情報が存在し、物理空間はその最も抽象度の低い領域です。情報が変われば、その写像である現実も変わる、という考え方です。
ヒーリングとは、整った周波数と共鳴させることで、相手の意識状態を本来の高さへ還していくものだと考えています。力ずくで変えるのではなく、鳴っている音叉が隣の音叉を鳴らすように、同調・共鳴によって本来あるべき状態へ戻していくものです。
人の感情や場の空氣を強く受け取る「繊細さん」といわれる人たちがいます。それは弱さではなく、「察する力」が強く働き、細かな情報まで受け取っているサイキック能力が発現した状態として見ることもできます。
エンパスやHSPと呼ばれる人は、相手の感情や場の空氣、音や光など、多くの情報を受け取りやすいため、人混みの環境や長く人と接した後は、処理する情報量が多過ぎて、疲れてしまうことが多いかもしれません。このような方は、自覚的にご自身が身を置く環境を選ぶ必要があるでしょう。
特別な人だけの超能力というより、直感、察する力、人や場の情報を感じ取る力、情報を書き換えて癒す力など、人間にもともと備わっている感覚の延長にあるものだと考えています。
船井幸雄氏は、直感力を人間に生来備わった能力と考え、「気の力」と結びつけて捉えていました。苫米地英人博士も、「超能力」と呼ばれる現象を、脳や情報空間の側から扱っています。私も、サイキック能力は意識が整った状態に常在することによって、本来誰にでも備わった感覚が開いた状態だと考えています。
船井幸雄氏は、直感力を人間に生来備わった能力であり、超意識から情報を受け取る能力として捉えていました。まず入口にあるのは、言葉になる前の情報や、相手・場所の氣配を感じ取ること。意識が静かになるほど、普段は雑音に埋もれている感覚にも氣づきやすくなります。
現実は自分の意識状態(周波数)に引き寄せられてくるものです。自分がどんな意識状態で過ごし、どの周波数の現実を選ぶか。その選択の積み重ねによって変わっていく現実の流れが、世界線だと考えています。
苫米地英人博士は、時間は未来から過去へ流れている、と説きます。私たちは無数の選択によって今を選び、その先の未来も無数にある……という世界線の理論を私は採用しています。だから、一つの未来だけが決まっているとは考えていません。過去も未来も自分自身が今の現実をどんな意識状態で受け取るかによって変わることでしょう。
努力は否定しませんが、焦りや欠乏から嫌々努力しても、その意識状態の現実の流れ(世界線)を引き寄せやすいです。逆に、意識を整え、本来の自分が楽しいと思う現実選択ができれば、楽しい現実を引き寄せる世界線に入ります。結果的に、膨大な行動量の継続(努力)が、本人は楽しいことをやり続けていただけ……となります。
少なくとも私は、そういう経験をしています。ただ、「神社で感謝すれば即座に願いが叶う」というような単純な話ではなく、感謝することで意識が「足りない」から「すでにある」の周波数へ整っていった結果、気づけば過去に望んだ状態になっていた……という経験です。
「叶えたい」と強く思うほど、その奥にある「まだ叶っていない」「まだ足りない」という欠乏へ意識が向くことがあります。願いの強さではなく、意識の状態に現実は引き寄せられます。だから、欠乏の意識で願いに執着するほど、かえって願いから遠ざかることもあります。
いいえ。執着を手放すことは、諦めることでも、何もしないで待つことでもありません。自分にできることは丁寧に尽くした上で、結果を自分の思い通りに固定しようとする力を緩めること。それが「ゆだねる」ということだと考えています。
循環の法則の話かもしれません。必ずしも同じ相手から、同じ形で返ってくるとは限りません。ただ、見返りを求めずに与えられる状態は、欠乏ではなく豊かさの側に立っている状態です。その在り方(周波数)が、結果として別の形で循環してより大きな形で戻るという話は「徳」の考えとも合致して自然だと思います。
私は、意識状態は現実の中ではお金に現れやすいと考えています。「減るのが怖い」「自分には縁がない」といった、お金に対する無意識の緊張や欠乏感、親子関係などのお金以外の観念も、お金に関する現実の選択や行動に影響していることがあります。
お金のブロックは、単なる言葉や考え方ではなく、感情や身体の反応として無意識に刻まれていることがあります。そのため、「私は豊かです」と頭で何度唱えても、無意識の深いところにある前提が変わらなければ、現実の反応も変わりにくいのです。
楽しい状態は、本来の自分に近い状態です。だから私の経験上、楽しく生活している人は、お金に不自由しない状態であることが多いように思います。ただし、その人の貯金が有り余っているとかではなく、楽しい生活を継続できるように、家族や身近な人がお金を出してくれる環境にあるかもしれません。
お金の金額だけを見るなら、際限がないからでしょう。世界有数の富豪だったロックフェラーには、「どれだけあれば十分か」と聞かれ、「あと少しだけ」と答えたという有名な逸話があります。「もっと」を求め続ける限り、どれだけ増えても「十分」にはならないということでしょう。
親の家は、ただの不動産ではありません。家族との記憶や感情が乗っているため、相場や損得だけでは決められないことがあります。売る、貸す、誰かが住む、そのまま残す、という選択をするのは不動産屋ではありません。まず自分や家族がこれからどう生きたいのかを整理することが大切です。
賃貸か購入かという住まいの問いは、誰にでも当てはまる正解はありません。受け継ぐ子がいるかによっても大きく前提が変わることでしょう。賃貸は年齢や将来の入居審査、購入は住宅ローンなど、現実的な条件もありますが、最後は「どちらが得か」だけでなく、自分がどう暮らしたいかで考えることが大切です。
一度落ち着くことです。1ヶ月後に物件があったとしても、今申し込むのかを冷静に考えましょう。本当に大切なのは、物件を逃さないことより、自分が納得して決められる状態に戻ることです。選択肢は無数にあるはずです。急かされたときほど、一度立ち止まる合図だと考えて良いでしょう。
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