あります(笑)。少なくとも私はそう考えています。神社という整った場所に身を置くことで意識が整い、その後の選択や現実の流れが変わっていくことがあります。
よくある疑問への
所長の一問一答
氣になっていること、今知りたいことにお答えします。
それぞれの問いに、所長である白川愁士からの一言回答と、
もう少し深く知りたい方のための記事を選びました。
神社・ヒーリング・願望実現・お金・不動産など、異なるテーマを扱っていますが、
「意識の状態(周波数)が変わることで、選ぶ現実(世界線)が変わる」
ということが、世界線調律所の根底にある考えです。
成功者ほど、直感や流れ、ご縁といった、目に見えないものを大切にしています。経営者が神社に参拝するのも、自分の意識を整え、良い状態から判断することの大切さや、努力だけで成功することが難しいことを、経験から知っているからだと思います。
氣持ちが良いと感じる神社であれば、どこでも良いと思います。その上で、地元の氏神様や、すでに自分や家族とご縁のある神社を大事にすると良いかもしれません。旅先なら、一宮や古くから大切にされてきた神社も良い手掛かりになります。
お願いしても構いません。ただ、成功者の多くは、神社で感謝を伝えることを大切にしています。願望実現の仕組みから見ても、「足りないからください」という欠乏より、すでにあるものへの感謝の周波数に、豊かな現実が引き寄せられやすいでしょう。
金額は自由です。神様はお金を必要としない存在ですから、極端な話、なくても大丈夫です。ただ、神社にとっては多ければ多いほど嬉しいでしょう。また、お賽銭という全く見返りのないことに、大きなお金を手放せるような意識の方は、自然と豊かな現実に恵まれているでしょう。
お賽銭がないから……という理由で参拝されないよりも、お賽銭がなくても参拝してくれる方が神様は喜ばれることでしょう。私自身、お賽銭をしない時もあります。神社を維持するためには、お金が必要ですが、その意味では御朱印やご祈祷の初穂料も神社を支えているお金です。
私は、そうは考えません。神さまは遠いご先祖さまともいえる存在です。神さまの私たちに対する気持ちが、祖父母が孫を見守るような「親心」に近いものだと思えば、作法や形式を間違えないことより、敬意と感謝の方がずっと大切でしょう。
正解はありません。ただ、その神社が「整った場」だと感じるなら、急いで帰らず、少しゆっくり過ごすのもおすすめです。その神社の整った場の周波数に、自分自身をより深く同調させることができるからです。
自由です。たくさん巡りたい日なら、それも良いですし、一社でゆっくり過ごしたい日なら、それでも良いでしょう。一日で数多くの神様にご縁を頂くことも、一つの神様や神社に時間をかけて深く同調することも、それぞれに良さがあるものです。
摂社・末社とは、本社に関連して祀られている小さなお社です。すべてに参拝しなければならないわけではありませんが、氣になったなら、ぜひ参拝してみて下さい。主祭神と深い関係のある神様や、その土地で古くから祀られてきた神様がいらっしゃることがあります。
御朱印は、神様とご縁を頂いた証です。今世で徳を積んだ証として、亡くなった時に棺桶に入れる風習もあります。もちろん御朱印目的の参拝でも良いと思います。そこから神社とのご縁が深くなっていくなら、それも素敵な参拝の形でしょう。
御祭神とは、その神社にお祀りされている神様のことです。古事記や日本書紀などを知ると、その神様の物語や土地との関係が見えてきます。そして一つの神様の名前の向こうには、神話や祭祀、長い年月にわたる人々の祈りがあります。御祭神を知ることは、その神社につながる大きな情報を知る入口でもあると思います。
全国の稲荷神社や八幡宮のように、同じ系統の神社が全国各地にあるのは、神様の神霊を分けて祀る「分霊」や、神様を新しい土地へお迎えして祀る「勧請」という仕組みがあるからです。神道では、神霊は分けても元の神様が減ることはなく、分けられた神様も同じ働きをするとされています。
神社が違っても御祭神が同じなら、ご縁の先は同じ神様、と見ることができますし、分霊という仕組みも、その考え方で捉えられます。ただ、長い歴史の中で、各神社に諸事情があります。元々は違う神様が、後世に同一視されたり、習合して祀られたりすることもあるため、「同じ名前だから完全に同一」と単純に言い切れない場合もあります。
同じ神様でも、『古事記』と『日本書紀』などの文献による違い、漢字の当て方、地域や神社に伝わる伝承などによって、名前や表記が異なることがあります。たとえば須佐之男命と素戔嗚尊は、どちらもスサノオを表しますが、違う字をあてたことにも理由があるでしょうし、その諸説を考えることも面白いものです。
日本では、大自然そのものや、ご先祖さま、歴史上の人物など、さまざまな存在が神様として祀られてきました。『古事記』『日本書紀』に登場する日本の神々は、私たち人間と切り離された存在ではありません。私は、日本の神話に登場する神々を日本にご縁がある人全員の遥かなご先祖さまとして捉えています。
天照大御神は皇室の御祖神(祖先)として祀られていますが、伊勢の神宮では同時に、私たち日本人の「大御祖神」「総氏神」とされています。長い日本の歴史の中で祖先の系譜は互いに重なっているので、どこまでも遡っていけば、天照大御神とのつながりは、日本人全体につながるものとして捉えることもできるでしょう。
正しい、間違っている、の概念では書かれていないと私は思います。『古事記』も『日本書紀』も当時の朝廷の公式文書として書かれていながら、別のことが書かれているという事実にも意味があるでしょう。同じ神様や出来事でも、古事記と日本書紀では内容や表記が違いますし、日本書紀そのものが「一書に曰く」と複数の異伝を残しています。
ホツマツタヱや竹内文書などの古史古伝は、学術的には「偽書」とされていますが、仮にそうであったとしても、その奥深さに私は感動します。公式文書である日本書紀ですら「別の書では、こう伝えられている」というパラレルストーリーの集まりです。あらゆるものに神を見て、八百万の神として祀る、日本らしい神話の構造だと思っています。
同じ神社の名前を何度も見たり、なぜか氣になったりすることがあります。呼ばれたかどうかを確認したり、検証したりする必要はありません。氣になるなら、行ってみれば良いのです。呼ばれていなくても、行って良いのですし、実際に神社に行ったということは呼ばれたのだと思います。
行こうと思ったのですから、ご縁がないということはないでしょう。ただ、今回は辿り着けないという体験が必要だったのかもしれません。そこに至るまでの流れを振り返ることも、意味があることでしょう。私はそういう場合、「また来なさい」という天からのメッセージだと思っています。その後、再訪して参拝できた時の感動は、また味わい深いものです。
張りつめていた意識が、神社という静かな場所でゆるんだ反動(好転反応)かもしれません。スピリチュアルの世界では、「浄化が起こっている」と表現されることもあります。心地良い眠氣なら、「良い参拝だった」と受け取って、ゆっくり休めば良いと思います。
ご祈祷とは、拝殿に上がり、神職の方に神様へのお取り継ぎをしていただく参拝で、昇殿参拝や正式参拝などと呼ばれることもあります。そこで奏上される祝詞には、言葉の意味だけでなく、長い年月、多くの人によって祈りとして積み重ねられてきた特別な情報があると私は考えています。
「とほかみえみため」は八音からなる言葉で、現在では「宇宙最強の言霊」、太祝詞として秘伝という説など、その由来や意味についてはさまざまな解釈があります。私は主に「遠津御祖神(とおつみおやのかみ)、笑み給え(微笑んでください)」の意味で捉え、宇宙から続く数え切れないご先祖さま全ての現実に感謝を向ける祈りとして唱えています。
特別なことをしなくても、ご先祖さまへ意識を向け、今ここまで命が続いてきたことに感謝することだと私は思います。そして、自分がどこから来たのかを遡り、自分という存在につながっている大きな生命の流れを思い出すことも、ご先祖さまが喜ぶ先祖供養になるでしょう。
お盆は、ご先祖さまを家へ迎え、供養し、再び送り出す日本の行事です。一方のお彼岸は、春分と秋分を中心に、真西へ沈む太陽と西方浄土の信仰、日本古来の先祖供養が重なって形づくられてきました。大まかにいえば、お盆は「ご先祖さまを迎える」、お彼岸は「ご先祖さまへ会いにゆく」行事です。
春分と秋分には、太陽がほぼ真東から昇り、真西へ沈みます。仏教では西に極楽浄土があると考えられてきました。その信仰と、日本に古くからあった先祖供養の風習などが重なり、春分と秋分を中心にご先祖さまへ意識を向ける「お彼岸」という日本独自の行事が形づくられていったようです。
夏至は一年で最も昼が長く、太陽が一年の極点まで「至り」、そこから折り返す日です。太陽とともに暮らしていた昔の人々にとっては、単に昼が長い日ではなく、一年の大きな生命のリズムが折り返す節目であり、暦を知る上でも重要な意味を持っていました。こうした太陽の節目を意識した祭祀は、世界中で見ることができます。
冬至は一年で最も昼が短く、太陽の光が最も弱まる日です。しかし、その日を境に昼は再び長くなっていきます。そのため古くから、陰が極まって陽が生まれる「一陽来復」、太陽の死と再生という大きな転換点として捉えられてきました。日本でも古くから冬至は祝われ、鎮魂から新嘗へと続く祭祀の流れは、現在の宮中にも受け継がれています。
レイラインとは、一般に聖地を結ぶ直線のことです。日本では、春分・秋分、夏至・冬至の太陽が昇る方向や沈む方向と、遠く離れた神社や霊山の配置が重なる例がいくつもあります。太陽の運行と聖地の配置、そして神話が、日本列島の東西に跨る大きなスケールで重なって見えるところに、日本のレイラインの不思議があります。
素粒子は波の性質を持ち、脳波も周波数で表されます。私は意識も周波数として捉えています。人や場所に触れたときに感じる「なんとなく心地良い」「なぜか重い」という感覚も、周波数と同調という考え方から見ることができます。
デヴィッド・R・ホーキンズ博士が言及している概念です。意識には、恐れや欠乏に近い状態から、安心、受容、愛、喜びへと向かう「高さ」がある、という捉え方です。人の優劣の概念ではなく、今どの意識状態にあるかという「在り方」の概念です。
安心できる場所で過ごす、好きな人と会い楽しい時間を過ごす、神社へ行く、感謝できることに意識を向ける……そんな安心や喜びを感じる時間が増えていけば、自分が常在する周波数も少しずつ変わっていきます。まずは、無理に氣分を上げようとするより、まず今の自分の感情や状態に意識を向け、無意識の自分に気づいてあげると良いでしょう。
自分の意識の周波数が上がると、以前は心地良かった場所に違和感を覚えたり、逆に今まで氣づかなかった人や場所に惹かれたりします。自分の意識の周波数に現実が引き寄せられるからです。本来の自分が何を心地良いと感じるのかが明確になることで、何を選ぶかの基準が変わり、自然と自分が心地良い現実に向かう選択ができるようになるのです。
変わると思います。人は、言葉だけでなく、相手の表情や感情、場の空氣など多くの情報を受け取りながら過ごしています。ヒーリングで起きる「同調」も構造は同じです。日常生活の中で私たちはいつも周囲の人や場の周波数から影響を受け、同時に自分の意識の周波数も周囲へ影響を与えています。
瞑想では、外側の出来事や頭の中の思考から少し離れ、自分の呼吸や身体を通して自分の内側と今この瞬間へ意識が戻ります。ずっと思考が流れていても大丈夫です。不安や恐れの思考に気づくことで、偏っていた思考や感情にも気づき、意識は本来の自分の状態へ戻りやすくなります。瞑想は誰でも手軽にできる、意識の周波数を整える方法です。
脳波だけで意識のすべてを説明できるわけではありませんが、意識状態を見る一つの手掛かりにはなると思います。緊張して思考が忙しい時と、瞑想や祈りの中で深く静まっている時では、脳波の状態が異なることも広く知られています。私は、こうした脳の状態と意識の周波数を重ねて捉えています。
そんな日は、意識の状態が環境と合っていないのかもしれません。焦りや緊張が強い日は、判断や受け取り方が狭くなりがちです。逆に整った日は、同じ自分でも物事が自然に噛み合うことがあります。「流れ」の違いは、運だけではなく、意識状態の違いとして見ることもできます。
不安の多くは、まだ起きていない未来について考えることで生まれます。脳には危険を探そうとする働きもあるため、考えないようにするほど止まらなくなることがあります。そんなときは、深呼吸や瞑想をして、身体と「今ここ」に意識を戻し、まず自分の心や感情を俯瞰してみるのが良いでしょう。
なくす必要はありませんし、全ての感情は必要な体験ですから、すぐに解消できないのも自然なことです。ネガティブな感情を否定して、無理にポジティブを装う必要はありません。まず「今、不安なんだな」「悲しいんだな」と氣づいた上で、その感情を味わい、向き合うことで、次第に感情に振り回されなくなっていきます。
顕在意識で「もうしない」と決めても、無意識領域にある長い時間をかけて作られた習慣や感情のパターンの情報量は膨大ですから、すぐには変わりません。顕在意識を船の舵、潜在意識を巨大な船体にたとえれば、舵を切っても、大きな船がすぐには曲がらないように、行動変化には時間がかかるのです。
意志が弱いのではありません。分かっていること(顕在意識)と、そうでない無意識の領域では、無意識の方が圧倒的に情報量が大きいので、「いつもの自分」の無意識の前提が変わらなければ、元に戻ることが自然ともいえます。本人が無意識領域まで変わることを望んだ時、自ずと行動も変わります。
親や教師、上司など、影響を受けやすい人から言われた言葉は、良くも悪くも無意識へ入りやすいものです。「あなたは〇〇だね」と言われた過去の記憶が、いつの間にかそれを自分自身のネガティブな性質として受け入れてしまうこともあり、その前提が本来の自分の行動を阻害していることもあります。
顕在意識でないという意味で、潜在意識や集合意識、そして超意識も無意識の領域と私は捉えています。潜在意識は、汗が出るなどの身体の反応やトラウマ、思い込みなど「自分の当たり前」の領域です。集合意識は、お金や一般的価値観など「他人と共有している当たり前」の領域です。さらに超意識は、個を超えたワンネスの領域と捉えています。
苫米地英人博士は、私たちが生きる世界を、物理空間を内包した情報空間として捉えています。情報空間には、言葉、概念、記憶、価値など、抽象度の異なる情報が存在し、物理空間はその最も抽象度の低い領域です。情報が変われば、その写像である現実も変わる、という考え方です。
ヒーリングを一言で表現すれば、整った周波数と共鳴させることで、相手の意識状態を本来の高さへ還していくものだと考えています。力ずくで変えるのではなく、鳴っている音叉が隣の音叉を鳴らすように、同調・共鳴によって本来あるべき状態へ自然と戻っていくのです。
ヒーリングによって、外側の現実を魔法のように直接、強制的に変えるのではありません。クライアントが常在する周波数や、現実の受け取り方にアプローチすることで、クライアントの意識が変わります。意識が変われば選択が変わり、結果として、その先でたどる現実の流れも変わります。意識の周波数に現実は引き寄せられるのです。
その人が顕在意識だけでなく、潜在意識の領域で、本来の自分が望む行動を阻害している、思い込みや洗脳等の意識にアプローチするのが世界線調律所のヒーリングです。本来の自分の魂が望む幸せや、楽しい周波数の現実を選んで行動できる意識状態に向かう「きっかけ」がヒーリングです。意識が変われば、自ずと行動も変わります。
体感はあまり関係ありません。身体が熱くなる、眠くなる、何かが視えるといった体感は一つの反応にすぎません。ヒーリングで行っていることは、無意識を含めた意識の周波数の同調と情報空間上の情報の書き換えです。大切なのは、その後の日常で、同じ出来事への受け取り方や感情、選択がどう変わっているかだと思います。
疲れることは自然です。ヒーリングでは、施術者がクライアントよりも整った周波数にいることで、クライアントがその状態へ同調していきます。ただし、同調は一方通行ではないため、施術者もクライアントの不安や痛みの影響を受けることがあります。だからこそ、人を整えるためには、まず日常的に自分自身の意識状態(あり方)が整っている必要があります。
ヒーラーも人間ですから、いつでも同じ状態ではありません。自分自身が強い不安や疲労の中にいることを自覚しないまま施術すると、相手を整えるつもりが、自分の方が相手の状態へ深く引っ張られることもあるでしょう。起こる事は周波数の同調ですから、技術の前に自分が今どの状態にいるのかを見ることは大切だと思います。
相手に良くなってほしいと思うこと自体は自然です。ただ、「私が治さなければ」という思いはエゴであり、執着を生みやすくなります。また、強く思うほど、相手を「自分では良くなれない人」として観測してしまうかもしれません。その人自身に本来の状態へ戻る力があることを信じることが、双方にとって良い結果につながりやすいでしょう。
「この人に治してもらわなければ自分は良くならない」という関係に問題があるかもしれません。ヒーリングは、本来その人自身が自分の感覚や選択する力を取り戻していくためのきっかけです。受けるほど自分で整えられなくなるのなら、少し違う方向へ進んでいるかもしれないと、一度立ち止まるのも良いでしょう。
前提として、ヒーリングは本人の意思を超えて一方的に変えるものではありませんし、それぞれの課題に向き合う機会を失わせるような結果にもならないでしょう。ただ、エゴではなく、誰かの症状や生活が良くなって欲しいという思いや全体の幸せを願うことは、祈りとして古来から行われている自然なものですし、私はヒーリングも同様と考えます。
身近な人を大切に思えば、少しでも楽になってほしいと思うのは自然です。ただ、家族ほど自分自身の感情や期待も入りやすくなります。ヒーリングは本人の意思を超えて一方的に変えるものではありませんし、家族や身近な人は特別なご縁ですから、現実的にもその人だけでなく、全体の調和を目指す課題があるかもしれません。
そう思います。苫米地英人博士の理論では、氣功やヒーリングのような情報空間の書き換えでは、「自分はできる」という確信度が重要になります。実際にヒーリングを行い、相手の変化を何度も体験することで、「自分は本当にできる」という確信度が上がります。その確信度がさらに情報空間を書き換える力を強くすることでしょう。
施術後に身体が重い、急に疲れる、相手と似た感情が残ることを「霊障を受けた」と表現することがあります。私は、その多くを、相手や場の周波数へ深く同調し、自分本来の状態へ戻りにくくなっている状態として捉えています。同調して移ったのであれば、再び整った周波数へ同調し直すことで戻ることができます。
人の感情や場の空氣を強く受け取る「繊細さん」といわれる方がいます。それは単純に神経過敏で打たれ弱いのではなく、「察する力」が強く働き、細かな情報まで受け取り、「同調」するサイキック能力が発現した状態として見ることもできます。
エンパスやHSPといわれる方は、相手の感情や場の空氣、音や光など、多くの情報を受け取りやすいため、人混みの環境や長く人と接した後は、処理する情報量が多過ぎて、疲れてしまうことが多いかもしれません。このような方は、自覚的にご自身が身を置く環境を選ぶ必要があるでしょう。
特別な人だけの超能力というより、直感、察する力、人や場の情報を感じ取る力、情報を書き換えて癒す力など、人間にもともと備わっている感覚の延長にあるものだと考えています。
船井幸雄氏は、直感力を人間に生来備わった能力と考え、「気の力」と結びつけて捉えていました。苫米地英人博士も、「超能力」と呼ばれる現象を、脳や情報空間の側から扱っています。私も、サイキック能力は意識が整った状態に常在することによって、本来誰にでも備わった感覚が開いた状態だと考えています。
船井幸雄氏は、直感力を人間に生来備わった能力であり、超意識から情報を受け取る能力として捉えていました。まず入口にあるのは、言葉になる前の情報や、相手・場所の氣配を感じ取ること。意識が静かになるほど、普段は雑音に埋もれている感覚にも氣づきやすくなります。
視えたことや感じたことを、すべて伝える必要はないでしょう。「あなたには幼少期に深い問題がある」「悪いものがついている」といった言葉が、新しい思い込みとして無意識へ入ることもあります。大切なのは、その情報を伝えることが本当に相手の役に立つかどうかです。視えることと、伝える必要があることは別です。
言葉は意味だけでなく、音、記憶、感情、発する人の意識まで含んだ情報です。言葉は情報空間にある膨大な情報へのアクセスキーのようなものだと考えられます。言葉は、情報空間から受け取れる情報のゲートを開き、無意識や現実創造に働きかけます。こうした働きを言霊として、古来から日本人は言葉に不思議な霊力が宿ると捉えていました。
変わると思います。なぜなら、自分の言葉を一番多く聞いているのは自分自身だからです。「どうせ無理だ」「自分はついていない」「お金がない」と毎日のように口にしていれば、何度も自分の無意識に刷り込むことになります。口ぐせは、自分が今どんな周波数にいるのかを表現しているのと同時に、その周波数をさらに強める自己洗脳にもなり得ます。
誰かに悪口を言ったから、同じ悪いことが罰として返ってくる、という意味ではないでしょうが、人に向けて発した愚痴や悪口も、一番近くで聞いているのは自分自身であり、無意識は主語を理解できません。不平、不満、怒り、否定の言葉を繰り返すほど、自分自身がその周波数へ同調し、その周波数に合った現実を引き寄せやすくなります。
少なくとも、私は変わると思います。「ありがとう」は繰り返し使うことで、当たり前だと思って見落としていた現実に対しても、感謝を感じる周波数へ意識を変えていきます。「足りないもの」を探す意識が、「すでに全てある」感謝の意識へ変わることで、感謝する現実を引き寄せます。その意味で「ありがとう」は魔法の呪文かもしれません。
あります。まだ心から感謝できなくても、「ありがとう」と言うことはできます。心がともなっていなくても、良い周波数の言葉を使うことで、自然と無意識も共鳴し、感謝の周波数に整っていきます。先に言葉を変え、その言葉を繰り返し自分に聞かせることで、少しずつ無意識を動かすことが可能です。
現実は自分の意識状態(周波数)に引き寄せられてくるものです。自分がどんな意識状態で過ごし、どの周波数の現実を選ぶか。その選択の積み重ねによって変わっていく現実の流れが、世界線だと考えています。
外側の現実を力ずくで変えようとしても、なかなか思い通りに変えることは難しいでしょう。それよりも、今の現実を受け取っている自分の意識状態や、無意識の前提を整えることができれば、同じ現実を見ても受け取り方が変わり、選ぶ行動も変わります。結果的に自然と、本来の自分が望む現実の流れ――世界線を選ぶことができるようになる。私が考える「世界線を調律する」とはそういうことです。
苫米地英人博士は、時間は未来から過去へ流れている、と説きます。私たちは無数の選択によって今を選び、その先の未来も無数にある……という世界線の理論を私は採用しています。だから、一つの未来だけが決まっているとは考えていません。過去も未来も自分自身が今の現実をどんな意識状態で受け取るかによって変わることでしょう。
努力は否定しませんが、焦りや欠乏から嫌々努力しても、その意識状態の現実の流れ(世界線)を引き寄せやすいです。逆に、意識を整え、本来の自分が楽しいと思う現実選択ができれば、楽しい現実を引き寄せる世界線に入ります。結果的に、膨大な行動量の継続(努力)が、本人は楽しいことをやり続けていただけ……となります。
少なくとも私は、そういう経験をしています。ただ、「神社で感謝すれば即座に願いが叶う」というような単純な話ではなく、感謝することで意識が「足りない」から「すでにある」の周波数へ整っていった結果、気づけば過去に望んだ状態になっていた……という経験です。
「叶えたい」と強く思うほど、その奥にある「まだ叶っていない」「まだ足りない」という欠乏へ意識が向くことがあります。願いの強さではなく、意識の状態に現実は引き寄せられます。だから、欠乏の意識で願いに執着するほど、かえって願いから遠ざかることもあります。
執着を手放すと、意識の周波数が軽くなるからです。「絶対にこうでなければならない」と握りしめているとき、意識は現状の不足や、実現しない場合の不安の方に向きやすくなります。「こうなったら嬉しい。でも、無条件で自分は幸せ」という意識なら、その周波数に見合った現実が引き寄せられるので、結果的に叶いやすくなりますし、叶わなくても幸せです。
循環の法則の話かもしれません。必ずしも同じ相手から、同じ形で返ってくるとは限りません。ただ、見返りを求めずに与えられる状態は、欠乏ではなく豊かさの側に立っている状態です。その在り方(周波数)が、結果として別の形で循環してより大きな形で戻るという話は「徳」の考えとも合致して自然だと思います。
不安や恐れの周波数に留まるよりは良いですが、ずっとそれだけでは限界があります。税金の支払いなど、やるべきことから逃げて表面上楽しくしていても、後ろめたい低い周波数は無意識に残ることでしょう。嫌な事の多くは、自分と向き合うための体験かもしれません。辛い感情のときは逃げたくなることも、意識が整えば自然と向き合えるかもしれません。
私は、意識状態は現実の中ではお金に現れやすいと考えています。「減るのが怖い」「自分には縁がない」といった、お金に対する無意識の緊張や欠乏感、親子関係などのお金以外の観念も、お金に関する現実の選択や行動に影響していることがあります。
「お金」と聞いて浮かぶ言葉や感情を、良い悪いを考えずに書き出してみると分かりやすいです。「怖い」「足りない」「申し訳ない」など、自然に出てくる反応の中に、自分でも氣づいていなかったお金への前提が隠れていることがあります。
お金のブロックは、単なる言葉や考え方ではなく、感情や身体の反応として無意識に刻まれていることがあります。そのため、「私は豊かです」と頭で何度唱えても、無意識の深いところにある前提が変わらなければ、現実の反応も変わりにくいのです。
楽しい状態は、本来の自分に近い状態です。だから私の経験上、楽しく生活している人は、お金に不自由しない状態であることが多いように思います。ただし、その人の貯金が有り余っているとかではなく、楽しい生活を継続できるように、家族や身近な人がお金を出してくれる環境にあるかもしれません。
お金の金額だけを見るなら、際限がないからでしょう。世界有数の富豪だったロックフェラーには、「どれだけあれば十分か」と聞かれ、「あと少しだけ」と答えたという有名な逸話があります。「もっと」を求め続ける限り、どれだけ増えても「十分」にはならないということでしょう。
親の家は、ただの不動産ではありません。家族との記憶や感情が乗っているため、相場や損得だけでは決められないことがあります。売る、貸す、誰かが住む、そのまま残す、という選択をするのは不動産屋ではありません。まず自分や家族がこれからどう生きたいのかを整理することが大切です。
賃貸か購入かという住まいの問いは、誰にでも当てはまる正解はありません。受け継ぐ子がいるかによっても大きく前提が変わることでしょう。賃貸は年齢や将来の入居審査、購入は住宅ローンなど、現実的な条件もありますが、最後は「どちらが得か」だけでなく、自分がどう暮らしたいかで考えることが大切です。
一度落ち着くことです。1ヶ月後に物件があったとしても、今申し込むのかを冷静に考えましょう。本当に大切なのは、物件を逃さないことより、自分が納得して決められる状態に戻ることです。選択肢は無数にあるはずです。急かされたときほど、一度立ち止まる合図だと考えて良いでしょう。
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